03.05
2015 ARTIST

ボリス・ギルトブルグが、英ガーディアン紙に寄稿しました!

2013年エリザベート王妃国際コンクールの優勝をきっかけに、一躍その名を知られる存在となったピアニスト、ボリス・ギルトブルグ。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍中です。
自身のCD解説なども手掛けていますが、イギリスのガーディアン紙に、「The pitfalls and perks of playing a concert hall piano」という記事を寄稿しました。

3月18日に開催される待望のリサイタル、皆様のお越しをお待ちしております!






The pitfalls and perks of playing a concert hall piano
(The Guardian in Feb 2015)
「コンサートホールのピアノを演奏する時の落とし穴と恩恵」 ボリス・ギルトブルグ

音楽家は皆それぞれの楽器と特別な繋がりを持っており、通常ステージでも自分の楽器で演奏するが、ピアニストにとってそれは稀なケースだ。私たちピアニストは自宅で練習し、コンサートホールの中に足を踏み入れるまで触れたことのないピアノで演奏する。ピアノという楽器は大きすぎるし、運ぶのにコストもかかるのだ。

最初にピアノに触れる瞬間は、とても重要だ。コンサートホールに入り、ステージにセッティングされているピアノに近づいていく。腕時計をはずして、ポケットから財布や携帯電話を出し、ピアノ椅子に座り高さを調節する…。この一連の動作を行っている間も近くにコンサートホールのスタッフがいて、彼らは期待感に胸を膨らませている。私たちにとっては数あるピアノのひとつだが、彼らにとっては唯一の大事な楽器であり、音楽家たちがどのようにそのピアノに反応するのか、とても気にかけているからだ。和音やパッセージなど数小節弾いてみると、瞬く間に、そのピアノはグランドピアノというただの置物から、はっきりと実態のあるものになる。このピアノこそ今夜演奏する楽器であり、出会いはまだ始まったばかりだ。

ピアノという楽器に良し悪しがあるというのは、ピアニストの人生の中では当たり前のことである。良いピアノもそうでないピアノも、値段に関わらずすべてのメーカーによって作られたあらゆるサイズの楽器から見つけることができる。コンサートグランドピアノは10万ユーロ以上するが、良くないピアノである可能性もある。小さいピアノは大きいものより優れていこともあるが、良いピアノが2台ある中でどちらかを選ぶとすれば、大きいピアノの方が芳醇で存在感のある音になるだろう。

どのような状態のピアノでもそれに慣れることができるけれど、優れたピアノであれば慣れるまでに長時間は必要ないし、またその逆も然りだ。良いピアノと共に過ごす時間はとても価値があり、音色を探し出す以上のことができる。反対に、悪いピアノが持つ機能はまさに見た通りで、練習に何時間かけても同じ音しか鳴ってはくれない。そして、どのピアノもそれぞれ違う特性を持っている。ピアノの製造には何百もの行程と調整が必要であり、その多くが人の手で行われ、これらすべてが最終的な音色を形作っている。ここで、2台のピアノを比べてみよう。これらは同じ年に製造された同じモデルのピアノで、見た目はまったく一緒だ。しかし、経験の浅い人でもわかるくらい音色が異なっている。同じモデルでもこれほど違う音が鳴るのだから、違うモデルや製造年のピアノ同士、そして違うメーカーのピアノを聴き比べると、この差はさらに明らかなのだ。

この不確かな要素は、それぞれのコンサートで演奏する際にさらなるストレスをもたらす。良いピアノというのは、良い会話相手のように、新しい解釈の方向性を教えてくれる。楽器に対しては自分の意思を押し付けるのではなく、柔軟に、音色の特徴に気を配り、心の底からそのピアノと繋がることができるように努めるのだ。したがって、どのコンサートも発見の旅であり、今夜はベートーヴェンやラヴェル、ラフマニノフがどのように響くのかという好奇心を絶えず抱いている。

最初の一音を奏でると、そのピアノを好きかどうかすぐ分かる。その楽器にもっと慣れる余地は常にあるけれど、どんなにたくさん練習しても「好きじゃない」ものを「好き」に変えることは難しい。自分の体の一部のように感じられるピアノには、ピアニストの心配事を忘れさせて音楽だけに集中させてくれる力がある。逆に、悪いピアノでは不安が増幅され、いつも一番危ないところで集中力が削がれてしまう。どんなに準備万端な状態でも、失敗してしまう可能性があるのだ。

私たちが「フライパン」(ロシア語では、救いようのない楽器をひねくれてこう言うのだ。)を信念によってのみ完璧なピアノに変えることができればそれは素晴らしいことではあるが、ピアノの持つ音色の個性を変えるには熟練した技術者が注意深く行わなければならないし、それには数時間、あるいは数日かかることもある。ステージの上では大抵、そこにあるものがすべてなので、最初にそのピアノを「好き」だと感じることができれば、それは大きな喜びなのだ。

しかし、「好き」なピアノとはいったい何だろう?私にとって夢のピアノとは、よく歌い、明快で、芳醇さと多様さを併せ持ち、どの音も丸く鐘のように時間をかけて減衰していく音色を持つ楽器だ。低音域から中音域、そして高音域まで均一の音色で、どれをとっても弱いところや不明瞭な部分がなく、明るすぎず、また解放されすぎない音色がいい。メカニックな面から言うと、鍵盤がどれも等しい重さになっており、重すぎず軽すぎず、音色を完璧にコントロールできる楽器が最適だ。これらすべてが繋がると相乗効果が生まれ、演奏する作品の新たな領域や次元を探検することができるようになる。

「好きじゃない」ピアノは、平坦で変化がなく、金属的あるいは不明瞭な音色で、ダイナミクスレンジも狭い。鍵盤の重さが不均等で、個性に乏しく、これら以外にもたくさん挙げられる。きっと私の求めるものが多すぎるのかもしれないが、最上の材料と道具を使うことができれば、音楽家に限らず画家やシェフだってベストな結果を残すことができるだろう。

はじめはそのピアノ特有の個性に驚くが、練習をしていくうちに、暗闇に目が慣れるように聴覚や触覚も徐々に慣れていく。私たちは耳をコンサートホールが持つ独特の響きに慣れさせなければならないし、指も鍵盤の特性に合わせなければならない。数時間が経過し、音がより深く満ちて聴こえ方をコントロールできるようになると、そのピアノはもう未知の楽器ではなくなっている。

ついにコンサートが幕を開けた。手を鍵盤の上にのせて…。ちょっと待ってくれ、これは同じピアノなのか?最初の一音を弾く時はいつも、少なからず驚きが待ち受けている。聴衆の存在がホールのアコースティックを驚くほど変化させてしまうからだ。そのアコースティックに適応するのには少し時間がかかり、時にはコンサートの前半をそれに費やしてしまうこともある。どんなに注意深い練習でも、コンサート本番の集中力にかなうものはない。誰もいないコンサートホールの静けさは、注意深く耳を傾ける人々が呼吸している時に訪れる静寂より脆弱なものだ。この瞬間、聴衆の人々、ピアノ、音楽と演奏者、それらすべてが沈黙によって一体となり、それ以外のものは何も存在しないように感じる。

コンサートが終わる頃には、ピアノが持つ秘密について完全に理解できるようになっている。未開の場所はどこにもない。そのピアノが良い楽器であれば温かい気持ちが残り、数時間前までは赤の他人だったのに、もう仲の良い知人のようだ。そして、いつものように翌日の朝にはその場所を去り、また違うピアノが待つ次の街のコンサートホールに向かう。たった数時間の出会いに、愛情と微かな悲しみを感じながら。